昭和51年06月25日 朝の御理解



 御理解 第58節
 「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹をたててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」

 教祖様の御教えを、どの御教えでもそれを徹して頂いていけば、ご神徳が受けられると言う御教えばかりだと思います。ですから只あのうおかげが受けられる御教えと言うてもい訳です。教祖様の御教えを守らせて頂いて、そこからおかげが受けられる。その御教えをもう一段深めて頂きますとお徳が受けられる。教典のすべてが御神徳を受けさせてもらう為にあると言うてもよし、ただご利益を受ける為にあると言うてもよし。
 だんだん信心をさせて頂いて、こりゃおかげだけではつまらん、こりゃ折角信心させて頂くなら、あの世にも持って行かれ、この世にも残しておけると言う程しの、神徳が頂けると言うのだから、神徳を頂く信心をさせて頂かねばつまらん。と気付かせて頂くところから、本当の信心真の信心が出来る様に思います。しっかり信心の帯をせよ、例えば泥棒だと言われても乞食じゃと言われても腹をたてるな、人の物を取ったりもろて歩かんなら乞食じゃないのだ。
 しっかり信心の帯をせよと。しっかり信心の帯をさせて頂く事によって、言うならば心が豊かに大きくなる、それは私がおかげが頂けれる、大きな受けものが出来ると言う事に繋がると思うんです。但しそれはどこまでも自分がおかげ頂く、言うならば自分のおかげが受けられる事の為に、大きな心にならしてもらおう、人がどんな事言うてもじっと辛抱しよう、腹を立ててはならんと言う事になる。
 それはどこまでもどんなに信心の帯を締め上げたところで、致しましたところで、又どんなに腹を立てないと言うたと致しましても、それはおかげの世界が開けて来るだけであります。それとてもやはり大事な事ですね。やはりひとつの段階を追うて信心は進められて行くんですけれども、ところがそれがです、例え泥棒といわれても乞食と言われても、それが公の事天下国家の事の為に、教会の為に教団の為に、人が助かる事の為に私はこの辛抱が出来たら、お徳を頂くと思うですね。
 人が助かる事の為に、まぁうならば自分の事と下り坂は、走らんものはないと言う様に、自分の事のおかげを頂く事の為に、ただしっかり信心の帯をした腹を立てなかった、と言うのであったらそれはおかげの世界、だからおかげを頂く為にはどうでもしっかり信心の帯をせないかん訳です。しっかり信心の帯をしとかんと、ちょっとした事言われるともう顔色が変わる腹がたつ。すぐくぅっとしてしまう。
 泥棒と言われたり乞食じゃと言われて、するともう赤面弁慶になってから、私がいつ泥棒したかいつもろうて歩いたかと、まぁ食って掛かる様な小さい心ではおかげも小さい。だから大きなおかげを頂く為には、やはり大海のような信心をせよとこう申してあります。氏子の心が竹の筒に水が溜まったような信心をするから、竹の筒の中に水が溜まった、いわゆる「ぼうぶり」ここら辺では、ぼうぶらと申します。ぼうふらぐらいのおかげしか頂かれない。
 大海のような信心をしてね、それこそ鯨の住むようなおかげが頂けれると言うのです。だから鯨の住むようなおかげを頂くためにもです、なら私共が豊かに心が、ならしてまらわなければならない。れどもただ鯨の住むような大きなおかげを頂くと言うだけでは、また私はつまらんと気付かせて頂いて、折角信心をさせて頂くなら、折角例えばお参りならお参り朝参りなら朝参り、お供えならお供えもです、ただおかげを頂く事の為にお参りしとる、お供えしとる御用を頂いておると言うのなら。
 おかげを受ける事になりましょうけれども、折角信心させて頂くならばその考え方をお徳を頂く事の為の信心、それはもう自分一人の信心じゃない、自分の事じゃないや自分の事はもう忘れてしもうてというのです。自分の難儀とか自分の苦労とか忘れてしもうて、自分以外の言うなら世の中が明るう成る様なおかげの為にです、自分の身は削ってでも、例えばローソクの灯りが燃えては周囲を明るく致します。自分の身は縮こまって行く。縮こまっていけば行く程周囲の明るさと言うものは、輝かしいものになって来る。
 明るいものになってくる。私はあのうお徳を受けられる、お徳が受けられる、お徳を受けると言う事はそう言う事だと思うです。だからどんなに珍しい信心が出来ておっても、熱心な信心が出来ておっても、それがただ私がおかげ頂かんならん、私一家が私の店が繁盛せなならん、と言うてお参りをする。それがいけないと言うのじゃないんですよ、例えばこの同んなじ58節なら58節でもです。
 私は御神徳の頂けれる生き方を身に付けさせて頂く為には、その同んなじ形の信心であっても、それが世の為人の為と言う様な事の為に、その信心の修行がです凝視されるならば、これはお徳を受けられる事になります。昨日は北野の関さんのお宅の宅祭りでありました。本当になんと申しますかね、本当に神様を信じておらなければ、あんなお祭りは出来はしませんね、たくさんなお金をかけて、もう何日も何日も前から、お宅祭りお宅祭りとお宅祭りの事に心配りをさせて貰うて。
 又ご参拝のおかげを頂く者も、今日関さんのところの宅祭りだから、お付き合いでお参りと言った様な人は、誰一人参って来ないどの人をみても。神様を信じるからお参りをしておるのである。そりゃ吉井当りから参ると言う事大変辺ぴなこと、しかも熊谷さん当り波多野さん当りの様に、もう70熊谷さんなんかやんがて80と言われる様なお年よりがです、しかも夜ですからねぇあの辺ぴな所に、久留米からこうおう回りして行かなければいけません。
 言うなら足元の悪いところを、お湿りの中に参拝のおかげを頂いておられます。言うなら神を信じる人達の集まりであります。なんとも言えん雰囲気で、お祭りが言わば仕えられる訳であります。神様を信じておるからであります。昨日なかに江口の東さん達の兄弟でお参りになっとりましたが、兄さんの方です日吉いせのさんの方です。まぁその方の話を芯にして昨日あちらでお話を聞いて頂いたんですけれども。
 関さんところのお神様と御霊神様が、床の間に一杯にこう本当にお祀りがしてあります。その上に額が掛かっておる、その額に私が書いて差し上げておるのが、綺麗な額に入れてあげてございます。それには「徳積みて栄える家や菊の花」と言う句が書いてあります。「徳積みて栄える家や菊の花」ね。だからんなら徳を積むならこの麗々しいお宅祭りが、これだけ沢山の言うならばお供えが、こんなにお金をかけての言うならばご直会が、ただおかげを頂かならんから、このお祭りが仕えられておったんでは。
 おかげは頂けても、いわゆる徳積む家と言う事にはならない。一年間の事を思うたら、あれもおかげであったこれもおかげであったとわからしてもろうて、やはり神恩報謝の心がこのお祭りに現れてこなければならない。ただおかげを頂くから、こういうお祭りをする。例えて言うと、先日からもう本当にたまがるようなおかげを頂いて、たまがると言うか事故に会われました娘さんが、非常に運転がなんて言うか、昨日も私がそのう敏子さんて、敏子さんの運転であちらに迎えに来て頂き。
 あのうあちら車で行き来ましたが、はりゃ女の人にはもう実に後ろから見とってハラハラす様な、まぁ大胆な運転をします。先日も久留米の十字路でダンプカーと「笑い」勇ましいですもんね。衝突しちゃる。勿論自動車もメチャメチャところが自分はかすり傷ひとつしていなかったと言うのですね。しかもですね、ほんにひと月前に主人が保険にかたって、お前はもうそのう運転が荒かけんで、いつどげんなるやら分らんから、保険にかたってやとったっち。
 考えてみると成る程自動車はメチャメチャになったけれども、かすり傷ひとつせず、うんならお金も随分かかる事であろうけれども、おかげで保険で出来ると言った様な、もう実にタイミングよいお繰り合わせを頂いた。だからそういう風に言えばお繰り合わせですけども、本当言うたらそんな事ないが一番よい。娘さんが久留米の方にも支店を出して、やはりみき美容院というのを久留米のみゆきのところで開きました。一向繁盛致しません、ところが敏子さんが長女ですね。
 が一生懸命毎日日参をして来るようになった、日参をして来るようになったらもうそれを境に繁盛するようになった。職人さんもいい職人さんが来てくれるようになった。もうどんなに思うても神様のおかげといわにゃ、言うならば自分の為でも一生懸命日参でもしょうかと言うごとなったら、おかげと言うものはその様にして伴うのです。先日もこりゃ余談になりますけども、日田に長野さんと言う、大変なお金持ちがあります。最近沢山な資本をかけて、パチンコを始められました。ところが一向に繁盛しない。
 そこであのお神様でもお祭りしたらと言う事で、御本部から立派なお社買って見えまして、そしてそのうお店に奉祭されますお祀りされます。昨日見えられて先生その日から売上が変わったち言うんです。その日から売上が変わったお客さんが多くなった、そして今日まで続いておると言うんです。もうちょうど十日ばかりあのいつあちらは奉祭されたか、いお日ばかり前だと10日間続いとると言うのです。
 と言う様に例えばおかげを頂くと言う事は自分の心が神様に向かう、少しお金使うてでもならお祭りのひとつでもさして貰う。おかげ頂きますよね。けどもそれはどこまでもおかげを頂くおかげの世界。さぁ辛抱しなさい辛抱しなさいと言うて、泥棒だと言われても乞食じゃと言われても、しっかり信心の帯をさせてもろうて辛抱すると言うても、それがただ私がおかげ頂かんならん、私が大きな受け物受けんならん、竹の筒に水が溜まったような信心では、ぼうぶらぐらいのおかげにしかならん。
 鯨の住むようなおかげ頂く為には、大きな鯨の、大海の様な心にも成らせて貰おうと言うて、いかに信心辛抱させて貰うて、信心の帯を締めあげたところで、それはやっぱり鯨の住む様なおかげだけにしか留まらないのです。徳積みて栄える家やと言う事は、もう徳を積むと言う事はもうおかげは自然に、願わんでも徳に付いて来ると言うのが栄える家であります。ですからこのまま辻が例えばなら、あれもおかげとこれもおかげと、もうそういう風に日参を始めたら、お商売が繁盛する様になった。
 そういう言うなら中にです交通事故にもおうた、だからこれはおかげであった、これはおかではないと言う事はない、あれもおかげであったあれもこれもおかげであったと、分からせて貰うて、そういうあれこれ思わして貰う時にです、なら一年一年有り難い、言うならば有り難い言うなら御礼のお祭りが出来ると言うても、それではただおかげの世界が広がっているだけ。けれどもそのお祭りがです、もちぃっと信心が高尚になり高度になってです、それが人の為世のために、祈りが懸けられるようになり、人が助かる事の為の言うならば真の信心が出来る、自分と言うものを度外視した信心である。
 いうならローソクの光るような信心である。自分の身を縮めてでも周囲を明るくしようとする信心である、そういう信心になってくる時にです、私は徳が受けられる、昨日ご参拝なっておられる江口の日吉しろさんの例をとったというのはです、先日から人間関係で家の中である大変なもう普通から言うたら、もうもうご破算にしなければしょうはなかろうと思うような問題が起こったんです。
 神様の願いをして御理解を頂いて、それこそ自分の心をです言うなら今日の御理解じゃないけれども、泥棒と言われても乞食じゃと言われても、じっと辛抱して言いたい事言わずに辛抱させて頂いて、あのういわば今度お百姓さんですから田植えになった、ところがそう言う問題起こしてるその人がです、その田植えの中心になって働いて下さったと言うのです。お礼に昨日一昨日出てみえてから、もう親先生もう神様には関心しましたち言いなさる。こりゃいつもの事ですけれども神様の働きには感心しました。
 神様が日吉しろさんから改心されなさった。皆さんでもおかげ頂いてね、はぁもう神様にゃて関心したというて、まぁ感心しておられる方ばっかりが、多いのじゃないでしょうかね。合楽にお参りしておられる方達には。おかげと言わずにおられない。本当にこの神様には関心した、もうよっと出来たお方じゃあると言う訳ですよ。素晴らしい力を持っておられる方達と言う訳なんです。
 そこでです神様がおかげ下さるから、神様に関心すると言うんじゃなくて、その神様からもう日吉いせのと言う女子ばかりゃ、こりゃ関心な女子じゃあると神様から関心されるようになると、お徳を受けるよと言うお話をさせて頂きました。そりゃ自分の事ならばそれこそどげな修行でもして、どげな一生懸命の信心でも出来る人があります。人間からみればほんに関心な事じゃあると言うかもしれませんけども、神様からご覧になったらひとつも関心な事ちゃない。
 はぁ我がおかげ頂こうと思うて、欲と二人で信心しよるとじゃけん。神様が関心しなさる筈がなか。人は関心しても、はぁりゃ関心な事ちゃある、朝早うからよう参りが出けなさってと言うて、どんな御用が出来たお供えが出来たと言うても、そりゃ関心な事ちゃあるけども、神様はいっちょん関心しよんなさらん。焦点がただ自分と言う事だけが中心だからなんですよ。それが人のね人の助かる事の為でもです。
例えば乞食だと言われても泥棒だと言われても、それを辛抱出来るような信心の、帯をしっかりさせて頂く事になったら、それはもうお徳になると言う事であります。ところが中々そう簡単にね、自分の事だけでも一杯なのに人の事までも祈れると言う事は、一見ね一朝一夕で出来る事ではありません。けれども段々信心が分かるようになり、言うならば愛教精神とでも申しましょうか、言うならば教会の事を一生懸命祈らずにはおられない、教会の何かの為に一修行でもさせてもらわねばならないと、言う様な信心が育って来ると言う事、育たなければならない。
 それこそ自分の身は縮めてでも、教会の立ち行きを願うとか人が助かる事の為に、信心が出来ると言った様な、信心が本当に出来る時にです。あの氏子は関心なものじゃと言う事になるのじゃないでしょうか。神様ばかりを関心するのではなくてです、神様からもまた関心される氏子にならせて言う事がです、「徳積みて栄える家や菊の花」言う様なおかげになって来るのです。徳と言うても見えるものではありません。
 疑えば限りがありませんけれども、だんだん信心をさせて頂いて、少しでも自分の心が育って人間心から、神心が使われる様になり、人の助かり事の為にひと修行させてもらおうと言う様な、信心が出来てまいる、いや人の為に一生懸命信心しよったら人から悪く言われる、人から笑われる人から叩かれる。それは自分の事でもないのに、そうであっても辛抱すると言うか、しっかり信心の帯をして行くと言うな、生き方にこそお徳が受けられる、信心が育って来るんです。
 だからこの教祖の御教えの全てがそうですけども、おかげを頂くと言う頂き方と、それをもっと深めて洗練されて参りますところから、御神徳に触れられる。神様のご信用が受けられる、信心になってくる。ただ自分の事だけどれだけ日参り夜参り出来てもです、そりゃほんに神様ちゃ関心なお方じゃあると言う様なおかげは受けても、神様が関心しなさる筈がありませんもんね。自分事の為にしっかり参ってくる、参ってくると思いよんなさるだけの事です。
 けどもその参ってくる参ってくるがです、それこそこの氏子は人が助かる事の為に、自分の身は犠牲にしてでも、しっかり信心が出来ると言う様な、信心になった時初めて神様があの氏子は関心じゃなと目を留めて下さる。目をつけて下さる。そして神様のお引き立てを頂いて、神様のご信用を頂き、御神徳を頂いていよいよ有り難いおかげの世界に住む事が出来、あの世にも持って行ける、この世にも残しておけると言う様な、神徳を受けて行く事が出来るのです。
 今日はこの58節から、おかげの受けられるおかげを受ける為には、教えを守らなきゃいけない、けどもお徳を受ける為には、ならただ同じお参りであっても、自分の事だけの為ではなしに、問題は自分の心が成長する、おかげを頂かなければ出来ませんけれども、世の中のいうなら難儀の様相と言うものを、身につけても聞くにつけても、いよいよもって合楽示現活動に参画させてもろうて、いよいよ和賀心時代を広げて行く事の為に、私が精進する。
 ただ精進するだけじゃなく、それは馬鹿と言われても、乞食といわれても泥棒と言われてもです、あれは偽善者じゃと例えば言われる様な事があってもです、私がどうして偽善者かと私がいつ泥棒したかと言う様な生き方ではなくて、それを黙って辛抱するほどしの信心の帯がしっかりでけた時に、私はご神徳が受けられる、言うなら神様から関心な氏子じゃと言う、おかげの頂ける時であると言う風に思いますね。
   どうぞ。